「承久の乱」を経て、東国地域政権から全国政権へとシフトした鎌倉幕府
戦う天皇の秘史「承久の乱」と「南北朝の戦い」での 2人の天皇の勇壮無比の活躍は真実か? 第3回
北条の厳しい処置と幕府による西国支配の進展
北条義時による乱後の処置は厳しかった。後鳥羽院政が廃止され、仲恭天皇は廃位、後鳥羽上皇の甥にあたる後堀河天皇が即位し、その父行助法親王が還俗、異例の後高倉院政が開始された。そのうえで、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐に配流された。
さらに、皇室領荘園もすべて幕府に没収された。その後、後高倉院に返還されたが、最終的支配権は幕府が掌握していた。院の経済的基盤も幕府の管理下に置かれたのである。新しい守護が配置され、三千余カ所ともいわれる朝廷方についた武士の所領が没収され、勲功のあった御家人に分け与えられた。
また、北条泰時・時房の2人を京都に常駐させ、朝廷の監視と京都の治安維持にあたらせた。六波羅探題の始まりである。
承久の乱に朝廷側が敗北することで、幕府による西国支配が進展するとともに、幕府は、西国をも含んだ全国的政権としての機能を発揮せざるを得なくなった。それは、御家人の権利を優先する東国地域政権から、全国を視野に入れた、御家人・非御家人の別を問わぬ全国政権としての対応が求められたことを意味する。そのなかで、国家守護の職務は、以後も幕府によって遂行されたのであるが、それは後鳥羽上皇が考えた朝廷主導によるものではなかったのである。
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